恩師の訃報
今日、恩師の訃報の連絡がありました。
志水正弘という方でした。
もうすぐ40年近くなる私の人生において、間違いなく人生の方向の分岐点になった方でした。
数寄屋建築で名を知られた方です。
熱海の旅館『蓬莱』・『VILLA DEL SOL』、『あさば旅館』、『長養館』を設計された方です。
新建築という建築雑誌に、何度も掲載されている建築家でした。
駅で切符を持たずに改札を通り過ぎてしまって、あとから切符を届けるまで、駅員が声をかけることも止めることもできなかった。という逸話が数多くあるような方でした。
強烈な方でした。
チャーミングな人間性と厳しさを、あわせ持った方でした。
『一流ということは何か?』ということを、
常にあらゆる言動・行動を通して、見せていただいたように思います。
ただ、二十歳前後の世間知らずな人間にとって、
『そのことのみが真である。』
と思い込んでしまう純粋培養的な危険性を、何となく感じてしまい、少し間合いをとって恩師と接してしまったように思います。
そういう意味で、私はその研究室では、少々アウトロー的な立場だったように思います。
『型』というモノ・コトの話も、いろいろありました。
私は、『型』が生まれる時、そして『型』を生み出すことに、最も大切な重要なことが含まれている・潜んでいると感じていました。
『恩師が本当に伝えたかったことは、何であったか?』
『何故あの時に、恩師は、あのような言葉を発したのだろうか?』
『言葉のうしろにあった、言葉にならなかった言葉は何であったのだろうか?』
ということを、今でもよく思い出し、考えます。
私自身、現在、教育にも携わっているので、その度に考えさせられます。
自分自身が発言する言葉を、その頃恩師が発言していたように思う言葉もあり、このような気持ちがあのような言葉につながるのか?と感じることも多々あります。
そして、
『教育とは、今までと違う世界の存在を、身をもってダイレクトに伝えることができるかどうか。』
ということなのではないか?と思ったりします。
私のココロの中に、いろいろな意味において、志水正弘という方は残っています。
・・・私自身の生も、いつまであるのかわかりません。
自分自身としては、現時点で、自分の人生に対して総合的に結果を出せていません。
ただ、いつ何がおころうとも、人のココロに残る人間でありたいですね。
志水先生、ありがとうございました。
志水正弘という方でした。
もうすぐ40年近くなる私の人生において、間違いなく人生の方向の分岐点になった方でした。
数寄屋建築で名を知られた方です。
熱海の旅館『蓬莱』・『VILLA DEL SOL』、『あさば旅館』、『長養館』を設計された方です。
新建築という建築雑誌に、何度も掲載されている建築家でした。
駅で切符を持たずに改札を通り過ぎてしまって、あとから切符を届けるまで、駅員が声をかけることも止めることもできなかった。という逸話が数多くあるような方でした。
強烈な方でした。
チャーミングな人間性と厳しさを、あわせ持った方でした。
『一流ということは何か?』ということを、
常にあらゆる言動・行動を通して、見せていただいたように思います。
ただ、二十歳前後の世間知らずな人間にとって、
『そのことのみが真である。』
と思い込んでしまう純粋培養的な危険性を、何となく感じてしまい、少し間合いをとって恩師と接してしまったように思います。
そういう意味で、私はその研究室では、少々アウトロー的な立場だったように思います。
『型』というモノ・コトの話も、いろいろありました。
私は、『型』が生まれる時、そして『型』を生み出すことに、最も大切な重要なことが含まれている・潜んでいると感じていました。
『恩師が本当に伝えたかったことは、何であったか?』
『何故あの時に、恩師は、あのような言葉を発したのだろうか?』
『言葉のうしろにあった、言葉にならなかった言葉は何であったのだろうか?』
ということを、今でもよく思い出し、考えます。
私自身、現在、教育にも携わっているので、その度に考えさせられます。
自分自身が発言する言葉を、その頃恩師が発言していたように思う言葉もあり、このような気持ちがあのような言葉につながるのか?と感じることも多々あります。
そして、
『教育とは、今までと違う世界の存在を、身をもってダイレクトに伝えることができるかどうか。』
ということなのではないか?と思ったりします。
私のココロの中に、いろいろな意味において、志水正弘という方は残っています。
・・・私自身の生も、いつまであるのかわかりません。
自分自身としては、現時点で、自分の人生に対して総合的に結果を出せていません。
ただ、いつ何がおころうとも、人のココロに残る人間でありたいですね。
志水先生、ありがとうございました。